40過ぎたおっさんが貯蓄ゼロからFIREする過程

ポイ活とパチスロで副収入を得て毎月25万円以上投資してFIREを目指します。節約術やお得な情報、初心者でもパチスロや株式投資で稼ぐ考え方・毎月の収支報告・オススメ銘柄を記載していきます。

⑧専門学校時代ー過食×後悔×謝れず

食事が食べれるようになったら、今までのことが恐くなった。人は食べないと生命を維持できない。当たり前のことに気づいたら、かなりの暴食があった。てか、食べるって幸せ。美味しいものは一杯ある。体重は一気に平均体重を超えて太っていった。でも、過食症とまでは言わないかな。ただのダイエット出来ない人間位かな。とにかく拒食症からの不健康生活に終止符は打たれた。

 

しかし、あの頃の自分は・・・裏切ってしまった高校の友達に謝りにいけなかった。日が経つに連れてもっと謝りづらくなることが分かってても、実行が出来ずにいた。勝手に裏切って勝手に離れていった自分、今思えばどうしようもなく情けない行動だった。

⑦専門学校時代ー救いの手

体力もなくなり日常生活にも支障が出てきた。学校は夏休みとなり、それで生活が出来ていたというか、倒れずにいれたというか、いっそう、倒れてしまったら解放されるのに・・・

その状況が変化したのは、中学時代の友達だった。私の様子がおかしい事に気付き、何かと電話があったり色んな事に誘って貰った。食事は一人では食べれなかったけど、周囲の人と一緒に居ると食べることが出来た。その友達からの紹介で色んな人と出会えた。

今思えば、かなりのネガティブ思考の自分によく付き合ってくれたと思う。少しこの時の記憶があいまいな部分が多いけど・・・助けて貰ってありがとうm(__)m夏休みというタイミングもよくて色々遊んだなぁ。夏休みが終わってもこまめに連絡をくれてたまに地元に帰り遊んだ。この頃には食事を食べれるようになってきた。むしろ、これまで食べれなかったけど反動か過食が始まった!

⑥専門学校時代ー平和バスター

高校一緒だった友達は仲が良く、男同士って仲良くても、弄ったりからかったりする事ってあるけど、そんな関係だった。そんな感じだから、『彼女作らんと』とか『暇人やね』って発言は高校の時と変わらず、いつもの感じだった。でも、あの時の自分には余裕がなくて、身体中が痛くて苦しくて、それでも時間があれば走り込みをしてた。暇人って発言がどうしても自分の中で許せなかった。相談も出来ず孤立し、辞めてと言えず孤独との闘いだった。勿論、そんな状況を知るよしもない友達はずっと私をからかっていた。

苦しさをその友達に相談してたら・・・
助けてって言えてたら・・・
自分のコンプレックスを打ち明けることが出来てたら・・・
 
今でもずっと後悔している。
その苦しい状況を知らずに、からかっていた友達との関係に終止符が打たれたのは、その友達からの結婚式の招待状だった。学生結婚するらしかった。結婚相手の彼女も高校のクラスメイトで一緒のグループ。心ではおめでとうって思っていた。でも、私は結婚式の招待状には欠席でハガキを出してしまった。身体が苦しくて、その友達にあってからかわれる事が限界だった。自分でもよく分からず、深く考えれず、欠席にした。勿論、数日後、携帯に電話がかかってきた。何度も掛かっても電話には出なかった。その友達だけでなく、高校の友達全員の電話番号を消した。知らない番号はずっと出なかった。これでもう自分を否定する人間は居らず、体重を減らすことに専念ができると考えてしまった。これにより半年間で体重が77キロから50キロになった。もう走る体力もない。じっとしてても身体がキツい。精神的にイライラが治まらない。ものの見事に平和をバスターしてしまった私は、どうすることも出来なくなって、倒れたら楽なのに・・・もう色んな判断が出来なくなっていた。

⑤専門学校時代ー拒食症の始まり

1ヶ月で11キロ落ちたが、自分の中で中学のベスト体重にこだわっていた。中学の体重に戻れば身体のキレが戻ると信じ、時間があれば走り込みをしていた。それでも60キロからなかなか落ちなくなり、ご飯も食べず、ウイダーインゼリーが主食となっていた。毎日どころか、数分単位で体重計に乗り、落ちていないか、ウイダーインゼリーを食べてどれだけ太ったか?水分でどれだけ増えたかが気になっていた。気付けば2ヶ月で21キロ落ちた。それでもまだまだ減らず、シャワーを浴びて体重が増える感覚になっていた。食べることが怖く、食べて増えた体重は走り込みで食べる前の体重になるまで走ってた。二の腕やお腹の上辺りの皮膚がカサカサになってきた。身体も痛い。眠れずに風邪薬を睡眠薬がわりに飲む。その量も徐々に増えていった。勿論、そんな状況では体重が落ちても身体は壊れてしまい体力が全くなくなりバスケが出来なくなった。バスケには行かず走り込みだけ続けていた。もう何のために体重を落とそうとしたのか分からなくなり、後には引けず、食事を食べず、走り込みをして風邪薬を飲むという日々の繰り返しだった。

考えることも分からず、ただ・ただ苦しさ・痛さが続き、周りが見えなくなっていた。
この状況で、高校から一緒に入学した友達に対して、一緒に居ることが苦痛になってしまう!

④専門学校時代ー新たな土地で

卒業後、独り暮らしを始め、バスケットをしてるクラブチームを探した。クラブはすぐに見つかった。大学のサークル中心に活動してるクラブに入れて貰えた。ここでは自分の事を知らない人ばかり。同じ中学の友達にあって色々言われる事もなければ、運動辞めて太った自分のコンプレックスを感じることもなかった。

いや、ここからだ。吐き気は変わらずにあったが実際に吐くわけではなくて、少し『オエっ』となって苦しい位と言い聞かせてバスケを始めた。まあバスケをやっている時間よりも、走り込みで体重を落とす事で頭がいっぱいだった。1ヶ月で11キロ落ちた。身長が182センチ位で高校卒業の時は、77キロだったかな。確か中学の時は体重54キロだったから、11キロ落ちてもまだあの頃には遠かった。あの頃に戻りたいって気持ちが強すぎたと思う。65キロ辺りから落ちなくなり、食事も制限を行った。今思えば1ヶ月で11キロ痩せて十分だが、当時の自分には何故これ以上落ちないのか焦っていた。

③高校時代

高校は第一希望の公立高校は落ちて私立の高校に入学した。小学校時代から変わったのは身体機能であって勉強は変わらず苦手だ。入学した高校にバスケット部はなかったが、クラブチームから誘われた事は嬉しかった。ただやはり原因不明の吐き気がありバスケットは出来なかった。当時の私はそこまでバスケットがしたいと思ってたわけではなかった。練習もキツかったしやれればバスケしようと思ってた位だった。しかし、私の高校は電車通学で同じ中学の同級生によく駅で遭ってしまう。なんせ、小学校時代イケてなかった自分が中学で変われて、私イコールバスケットが憂鬱になってくる。しかも部活を辞めた自分は食欲は変わらず、みるみる太っていく。でぶっちょになった自分を周りが陰でヒソヒソ話してるのではと人の目が気になる。中学校の同期は私をみるたびに『バスケしよん?』が口癖だ。いつしか電車通学が苦痛になってきた。そんな中、高校のクラスメイトとは3年になる頃には仲良くなり楽しかった。ちょうどPHSが普及した時代で卒業前には学校外でも遊んで楽しかった。就職とか進学とか将来何になりたいとか深く考えず、都会に出ようと専門学校の進学を選んだ。大学に行く頭はなかったからだ。ただ3年間で体重が20キロ以上増えて、中学の友達には会いたくない。高校の友達と居ると楽しいと感じていた。特に仲良かった男6人、女6人の12人グループはあった。その中でも一番仲良かった友達が自分と同じ専門学校に行くことになって嬉しかった。この時は・・・

ただ自分の事を知らない土地に行って、バスケットがもう一度したいって気持ちが生まれていた。その新たな土地でもう一度痩せてバスケットをするって心に決めて高校を卒業する事になる。

②小中学校時代

クラスでも足が遅くて、昼休みに『つき鬼』をすればチャイムがなるまでずっと鬼。勉強も出来ないし宿題やってこない。忘れ物多い。教室の自分の机の中には数日前の給食ででたパンがある。言ってみれば、クラスでも嫌われる・からかわれるタイプのイケてない小学生だった。

でも、中学校で転機が訪れる。バスケットを始めたのだ。当時は『スラムダンク』という漫画が大流行でバスケットが凄い人気だった。部活を決める体験入部でも大勢の生徒が参加していた。だが、自分はバスケットが好きだったわけではない。当時テレビで日本代表の試合がよくやってたバレーボールがしたかった。私は身体能力は最低レベルだが小手先の器用さは何故かあってバレーボールは自分には合っていたと感じた。ただ自分の中学校にはバレーボール部はなくて、同じ『バ』の付くバスケットが似てると思ったからバスケを選んだ。
そんな運動音痴な自分が多くの仮入部者と一緒に参加している。もちろん、自分が一番下手くそだった。ただ、このバスケット部の顧問の先生のあだ名が『瞬間湯沸かし器』と言われるほど厳しくよく殴られた。今では問題になりそうだが当時は当たり前の時代かな。まあそんな顧問なので体験入部で辞退する生徒ばかりでほぼ皆辞めて残ったのは運動神経が良いメンバー。で、そこに自分が居る。何故かって、私は情けない男で勇気がなくて、やっぱり入部しませんって言えなかった。それで厳しいバスケット部に入ってしまった。クラスメイトからも、運動音痴な自分はすぐに退部すると皆が思ってた。でも自分は辞めなかった。3年間誰よりも練習に出てキャプテンになって取り組んだ。いやいや、正直に言うと退部する勇気がなかったし、同級生みたいに塾とか嘘ついてサボる勇気がなかっただけだ。勇気がないから練習に出たし辞めれなかった。まあ理由はどうあれそんな厳しい環境に居るとクラス1の運動音痴もそこそこの身体機能を手に入れるものだ。まあ私のプレイスタイルは、わざとファール貰ったりトリッキーで、意表を付くプレイではあるが。小中学校の9年は同じメンツの学生だったから、小学生時代の自分を知っている皆は、私イコールバスケットで変わった  って印象が強い。まあそれでも市内で5番手位の中堅の中学だったが、高校でも勿論バスケを続けようと思っていた。
ただ、中学3年の引退が近づいた頃から、少し動くと吐き気がするようになっていた。病院にも行ったが原因不明らしい。〔のちに咳喘息?と診断〕少し動くと辛いが水分を多く取ると少しはマシで何とか引退までは誤魔化しでプレイ出来ていた。ただやたら水分を取るため、私の周りは汗で水たまりになっていた。ちょっと動くと吐き気がするのは日に日に酷くなってきた。そんな中、中学校を卒業する。