40過ぎたおっさんが貯蓄ゼロからFIREする過程

ポイ活とパチスロで副収入を得て毎月25万円以上投資してFIREを目指します。節約術やお得な情報、初心者でもパチスロや株式投資で稼ぐ考え方・毎月の収支報告・オススメ銘柄を記載していきます。

⑮九州転勤

この会社は全国展開をしてて勿論全国にあれば活気のあるデイサービスもあれば全然お客様の居ない不人気の営業所もあるわけで、会社的に言えば、私は新規立ち上げから一気にお客様が増えた成績優秀な事業所の施設長というわけである。

そうした中で、会社としては、成績の悪い営業所に異動してもらって、その事業所の立て直しを期待させるのであって。

 

ただ、会社は勘違いしているけど、私は売上第一の考え方が嫌いであって、会社が指導するやり方にも一切守らず、営業も行かず、ただ職員と一緒に頑張ってきたからお客様が増えたのであって、とても会社が気に入る従業員ではなかった。

まあそれでも転勤を承諾したのは上手くいきすぎていて怖かったこと。新規も受けれないほど満員で、会社から外部のケアマネジャーから評価もされて、この評価を維持する自信がなくて不安だったこと。あと、自分が異動する事で現場から職員が管理者に上がり出世の道を作ってあげたかったこと。この辺りで転勤を承諾しました。

⑭地元で新規立ち上げデイサービス開業

当時は、会社も上から色々言わず、結果を出していれば、ある程度自由に運営させてくれていた。知人を一人連れて後は地元で採用だった。面接での採用も全部任せて頂けた。

 

私の中では、正三角形の考え方が信念で、採用の基準も経験年数よりも、やるときはやる。後は楽しくがモットーでインスピレーションで採用した。

 

私は過去の過ち・社会不信の経験から、常に二つの信条がある。

 

・人を大切にする事

・社会の嫌な部分にきちんとNoと言うこと

 

この二つは絶対に守ると心に誓った。もちろん、口で言うことは簡単で、異動前の職場では自分は職員を大切にしていないと思われていたり、社会の嫌な部分にNoと言うには、管理者であればいつか難しくなる日が来ることは分かっていた。でも、私はやるしかなかった。社会不適合者の私が何故管理職になったかこれも葛藤があったが、ここで社会の波に呑まれて嫌な人間になりたくない!そんな想いを強く持っていた。

 

職員が楽しく働けて、お客様が喜んで利用してくれて事業も収益が出る。

 

これは周りから見たら『綺麗事』って思われるだろう。凄く難しい事だとは分かっている。でも、私はこの『綺麗事』を実現するために仕事に真剣に取り組んだし、採用した職員にも恵まれて、『綺麗事』・『理想論』が実現出来たと思う。会社でも、トップの成績で表彰もされた。他の事業所は会社に売上が低いとか上司が来てグチグチ文句を言っているがうちの事業所には、私の意向もあり、職員に売上とか人件費とかいう数値は言わず、また上司も任せてくれてたので、のどかな雰囲気だった。

 

多分、この時がこの会社で1番、満足度が高く働けていた時間だったと思う。売上売上言わなくてもお客様が増えて楽しく仕事が出来る。まあ職員の本心は分からないけど、仕事以外でも、食事に行ったり楽しかったと思う。上手くいきすぎて恐い位だった。てか、恐かった。職員が楽しく働ける環境を作りたいと思いながら、自分自身の理想の実現の為にやっているというジレンマも感じていた。

 

そんな時期に、転勤の話があった。

⑬遂に社会に出る!

福祉の専門学校を卒業し地元の介護施設に就職しました。ここで感じた事、介護の仕事でも縦型社会はあるんだなと思った。1年働いて、友達の紹介で隣の市のデイサービスの生活相談員として働く事になった。ここでは、一生懸命働けた。重度の要介護認定の利用者様や医療の高いお客様まで日々勉強しながら一生懸命仕事を数年続けた。初めは少なかったお客様も新規が受けれない位増えて、一生懸命仕事をすればケアマネジャーから選んで貰える喜びも感じていた。のちに、そこでデイサービスの管理者となる。

私自身、他のデイサービスではなかなか対応出来ないお客様もうちのデイサービスにきていただいて、本人や家族からも喜ばれやりがいに感じていた。しかし、スタッフはそうではなかった。困難ケースを何でも受ける私を売上ばっかり見てる嫌な上司と思われてしまったのだ。

私自身、そういう人間になりたくないと社会に出れず、介護の道を選択しやっとここまできたのに、一生懸命仕事して管理者になりそう思われたのだ。哀しかった。まあ職員にはそう思われるポジションであり仕方ないとも思ったのだが、辛かったのは、当時の上司の影響もあったと思う。

当時の私の上司でもある施設長はデイサービスの知識はなく、私と同じで会社というのを余り出したくなく現場の人間が楽しく働ければ良いという考えで私は最初好きだった。でも、何でも職員の話を受け入れる態度は優しいというよりは甘いと感じていた。

事務書類をするために、現場に職員を多く配置する。それでも事務所に手伝ってと職員が来る。事故があったわけでもなく、それは、現場の職員で十分対応出来るため、その旨伝える。事務所に居る上司が、〔現場優先でしょ〕とデイサービス職員の前で私を怒る。

 

上司=職員に優しい

私=売上重視の酷い管理者

 

だいたいいつもこのパターン。仕事も全然廻らない。動きの改善も出来ず、いつもドタバタ。この状況を打開しようと業務改善に取り組むにも、酷い私の話に職員が耳を傾けるわけもなく、1番の弊害は職員ではなく上司。こんなんだから、サービスもよくなく、お客様も増えない。会社は数字が悪く人件費削減を言ってくる。これでは職員を守れない。いや、職員は私が悪と思ってんのか(笑)

そうなると、直属の上司の私よりも施設長が皆好きなわけで、私は孤立していった。私の嫌いな人間と同じと思われる日々、つらかったなぁ。

 

 

私は、職員がやるときはやる。休むときは休む。それで楽しく仕事ができたらいいなぁと思っているし、それでお客様の満足度が上がって喜んで利用してくれたらいいなぁと思っているし、それによって事業としても収入があり成り立つ事が良いと思っている。

 

これは私が講習でよく話す持論だが、職員・お客様・事業の3つとも同じレベルで高めていき、その3つを結んだ正三角形を大きくする事を理想としている。売上にこだわって職員を低くしたり、また甘えで必要以上に高くして、二等辺三角形にしても、それは低い部分で三角形が小さくなる。私は正三角形を大きく為べきだと感じていた。

職員に優しくすべきであって甘くしてはいけない

   厳しくすべきであって冷たくしてはいけない

 

ここで学んだ。しかし、今の私のポジション・今の上司では、私は何も出来なかった。社会との葛藤に悩みながら仕事をしていた。

 

そんな時に、会社で私の地元に新規で事業所を作る話が出て、私はそこの立ち上げから関わり施設長として異動する事が決まった!

⑫福祉の道へ

スロプロ生活をしながら、将来の事を考えていた。売上とか気にせずに、一生懸命打ち込める仕事はないだろうか?

海外ボランティア・歯科技工・自営業等色々考えていたが、どれも難しい道のりだった。そんな時に、母親から、どうせ仕事もしないで暇やろって理由で、老人会の運動会のお手伝いをさせられた。初めは乗り気でなかったが、裏表のない、おじいちゃん、おばあちゃんとの会話や手伝いは楽しかった。こういう仕事がしたいと思った。それで自分は福祉の専門学校に入学する事を決意した。まあ親も賛成でもなければ反対もしてないという感じだったろう。私は親の世間体を気にして仕事するのではない。やっと見つけた社会にでれそうな仕事を見つけたのだ。私はその学校の二年間皆勤賞で卒業した。前の学校では登校拒否してたので、絶対に休まないと決めていたのだ。勿論、風邪を引いても学校に行って今思えば迷惑かけた気もする。

 

⑪専門学校卒業→スロプロ生活→世間からのバッシング

それでも卒業は出来た。出席日数が足りるのかとかよく分からないけど、卒業式は参加し卒業出来た。そして実家に戻るのだが、就職していない自分は収入がなくて、またアルバイトだろうが、こんな縦型社会に入りたくないと何も出来なかった。

 

①生きていくにはお金が必要

②お金を手に入れるには社会に出て働かなければいけない

③社会に出なくてもお金を稼ぐ方法はないのか

 

その答えが、ギャンブルだった。ギャンブルといえば、一時的には勝つことが出来ても、長い視点で考えると負けるというのが、一般的な考えと思う。しかし、引きこもりにならず、生きていく唯一の術であった自分はそこはきちんと考えてみた。負ける=生きていけない

 

ここでは詳細は省きますが、パチスロはある程度の知識と技術があれば経験がなくてもギャンブルで勝てるというメドはありました。それで、パチスロでお金を稼ぎ生活するという結論に至りました。

 

周りからしたら、仕事もしないで遊んで生活してると思われるでしょう。ラクして大金稼いでいる。二十歳過ぎた大人が職にも就いていない。勿論、親からも言われました。

私は、私の嫌いな社会からバッシングを受けました。

当時の私はこう考えていました。

そんなに私は間違ったことをしてるのだろうか?

嫌な社会に媚び売って生きていくことが正しいことなのだろうか?

誰にも言えず相談出来ず、私自身は真っ直ぐな道を、周囲から見たらひねくれた道を歩んでいました。

⑩専門学校時代ー登校拒否

私の実家は専業農家で農業一本で生活していた。まあ私は次男であり、家を継ぐとかそんなことは頭になく、とりあえず地元に戻って就職したいと思っていた。出来ればプログラミング関係の仕事に就きたがったが、一般教養の低い自分はそういう筆記試験が苦手でなかなか内定を貰えずにいた。営業や販売でノルマがあるような仕事は嫌だったが、就職も決めないといけないとも感じていた。で、農業関係の大手も面接受けました。家が農家というよりは、営業でも、ガンガン知らない場所に飛び込み営業ではなく、農家の高齢者に定期的に訪問するような仕事内容だったので、これならまあ良いかなぁってそんな感じで応募しました。

まあ我が家はお金はないが、ビニールハウスなど土地はある。面接では、私の事よりも家のことばかり聞かれた。土地の広さ。農業機具の購入先。農業組合のことまで。

 

で、内定貰いました。

 

はい、親の力で!

 

私はそんなつもりはなかったし、辞退しました。

 

で、担任の先生に怒られました。怒っている理由はよく分からないけど、他のクラスと比べて、就職内定率の事があったからみたいです。大手からの内定やとにかく就職させて内定率。これがこの学校の先生には1番大事な事で、言ってみれば、その方針に従わない生徒は不要だった。

この学校では、毎朝朝礼で、ひとりひとり名前を読んで出席確認をするが、次の日から私の名前は呼ばれなくなった。まあ私以外にも数名同じ処遇を受けた生徒は居るが。

まあ私は先生にとってもう学校に存在していない状況で無視された。中には先生に謝りに行って、どこでもとにかく内定貰って媚びを売った生徒はいたが・・・

お昼休みも先生の気に入った生徒と食事に行ったり、とにかく、私を含め数名差別の日々だった。勿論、この学校・この先生はおかしいと思ったが、何よりも怖かったことが、この先生の考えが正しくて、私達が悪いことをしているという雰囲気が他の生徒から感じられた。むしろ、私と同じ差別を受けている生徒が良識あって普通と思うが。

 

 

普通ってナンだ!大半の人が正しいと思っていることが普通であって、私は普通ではないのだろうか。この学校に居ると気がおかしくなりそうだった。学校の先生にもノルマがあり私に内定を出した会社も利権で採用され、社会って嫌なとこだなって思った。

そして、私は学校に行かなくなった。まあ行っても出席確認で名前を呼ばれないし、もとから学校で存在してないのだが・・・

⑨専門学校時代ー勉強×進路×就職活動

ここで学校に目を向けよう。私は数学が得意だったという理由で高校は商業科、簿記も勉強してた頃は点数も良かったという事から、税理士方向を目指してたのかなぁ。一応[笑]

ただ税理士なるには日商簿記1級の資格が必要でそこから税理士試験には5つの科目を合格しないといけない。仮に順調に全ての試験を受かっても学校での授業内容と最短で4年かかるらしい。4年も学校行きたくない。かといって不景気で就職も少ない状況であった。2000年問題の時期でした。

まあ夏休みも終わり、バスケは辞めて体調もそこそこ良くなっていたから、今後は社会に出ることを考えないといけなかった。

ただ、やりたいことって別になかった。大きな会社に入るとか給料が多いとことか大事と思うけど、やはりやりたい仕事内容でないと・・・でも、やりたいことって何?という状況だった。

ただ、今更ながら自分はこの学校に馴染めなかった。学校自体は専門学校だけど、全国に数カ所ある大手だった。学校の先生も担当クラスの就職率とか資格試験の合格率とか競争が激しいんだろう。生徒の思いとか先生には関係ないことで、そんな雰囲気が生徒にも入り込んだ感じを受けた。まあ私自身、中学や高校の友達と比較してしまう事はあったのだろうけど・・・

まあそれでも就職活動はしたし、クラスメイトともそれなりに付き合いはあったのだが・・・

 

そんな時、ある事件が起きた!